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アメ村マンガ研究所

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日曜マンガ博物館(28)横山光輝と史記と故事成語②

日曜マンガ博物館
第28回



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横山光輝と史記と故事成語②


先週に引き続き、横山光輝画の現代に生きる史記の故事を送ります。


③刎頚の友

戦国時代後期、趙という国に藺相如(りんしょうじょ)という大臣がいました。彼は有能な才覚の持ち主で、短期間で大臣まで登り詰め、国の柱石とまで言われる存在になりました。しかし、そのあまりにも早すぎる出世から妬みも多く、その急先鋒は国随一の猛将であり、功臣であった廉頗(れんぱ)将軍でした。彼はことあるごとに藺相如を非難し、藺相如自身もそのことを知って廉頗を避けるようになりました。その避け方も廉頗の家の前を通らなかったりと徹底していました。藺相如の家来はその主人の情けない行動に呆れて、主人に何故かと問いました。そこで帰ってきた言葉は意外なものでした。自分が妬まれていて、そのことで武の功臣である廉頗将軍と争えば、利するのは周辺の敵国であり、国の乱れになる。だから自分はあえて廉頗を避けたのだと。この話は流れ流れて廉頗の耳に入る。彼は藺相如の意図を即座に汲み取り、かつ自らの不明を嘆いた。ある日廉頗は藺相如を訪ね、自らを罰するためにイバラのムチで叩いて欲しいと頼みにいきます。この行動に藺相如は感動し、廉頗に首をはねられても悔いはなしと言い、廉頗も同じく藺相如に首をはねられても悔いはないと宣言するのです。


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このお話、互いの友情が深まったという話だけでなく、小事にとらわれると大事を見過ごしてしまうということを教えてくれています。内部の争いは敵を利するだけでなく、国を大いに乱れさせます。逆に国の柱石である二人が刎頚の友となり、国のために尽くせば、周りの敵国は手を出せなくなるということです。

それが証拠にこの二人が健在だったときは、敵国は趙に攻めることができませんでした。しかし、二人が老齢となって死んだり、国を離れてしまうと、趙国は滅亡の道を歩み出すのでした。



④奇貨居くべし

直接的な意味は「とても価値のあるもので買っておこう」ということになります。物事、商品の価値に対して先見の明があるというときに使われます。え、そんなん使ったことないって?いやいや、新しもの好きのあなたが何かよくわからない物を買う時にこの言葉「奇貨居くべし」と言ってみるのはどうでしょうか?

由来なのですが、先ほどの刎頚の友とほぼ同時期の、しかも同じ趙の国での出来事です。当時、各国は領地や覇権争いで幾つもの戦争、争いを続けていました。しかし、ずっとしているわけもいかず、戦争を終結し、かつこの先戦争をしないために互いの王族、有力者を他国に人質に出し、一時の平和を保っていたのです。当時の王は数多くの妻妾を迎え、自分でも把握できないくらいの子供を抱えていました。

当時、大国にのし上がっていた秦も例外ではありませんでした。趙との戦争を止めるために和睦し、その条件として王族としてはかなり下の方の王の子供・子楚(しそ)を人質として趙に差し出していました。人質という身分、一度戦争が起こると、真っ先に殺されるかなり損な役回りで、本国秦も彼がいるから戦争を止めるといった悠長なこともなく、自分たちの覇権のためには躊躇なく攻め込んだりするかもしれませんでした。さらに敵国の王の子供であっても、敵国趙では歓迎されることもなく、むしろ小競り合いの度に趙の住民からは石を投げられる始末でした。そんな子楚に目をつけたのは当時この辺で巨万の富を得ていた商人・呂不韋(りょふい)でした。彼は子楚が大国秦の王子であるというところに目を付け、こうつぶやきます「奇貨居くべし」と。彼は一族を上げて子楚をバックアップします。自分の愛妾を子楚の妻に差し出し(この2人の間に生まれた子供が後の始皇帝・政なのです)、趙の国の社交界に子楚をデヴューさせ、その様子を本国・秦の有力者に喧伝するなど。そしてその効果で子楚は一躍秦の後継争いのトップに躍り出ます。ここまでに呂不韋の使った金額はそれまでの巨万の富のほぼ全てだったといいます。


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そののち王が死に、子楚は悠々と祖国に凱旋を果たします、跡継ぎのトップ「太子」として。その後、子楚は王に即位し、呂不韋はその功で「丞相」(今でいうと総理大臣みたいなもの)に上り詰めます。誰からも見向きもされず、命すら粗末に扱われた子楚に賭けた、呂不韋にとってはまさに子楚は奇貨でした。

この説明だけではない、もっと困難で、幾多の障害があったでしょうが、呂不韋はあえて人生全てをを賭けました。こんなでっかい、生き死に関わる賭けを打って、そして勝った男はいないのではないでしょうか?一介の商人が丞相になる。自分の一生で一回でもいいので、奇貨居くべしという時に出会えたらいいと思いますね。



⑤四面楚歌

最後は四面楚歌です。これはよく・・よくではなくても聞いたことがあるフレーズだと思います。周りが敵だらけ、万事休すといったときだったり、オヤジギャグが通じなかって周りから白眼視された時に「こりゃ、四面楚歌やな」といった具合にです。最近の言い回しでは「ここ、アウェイやな」という言葉が現代では近いのではないでしょうか?

そんな四面楚歌、その由来には哀しくもあり、人間の本来備わっている故郷愛が滲み出る由来となっています。

時代は秦の始皇帝が死に、再び動乱の世界に戻って、「漢」と「楚」が覇権を争い、中国を二分していた時のお話です。有能な家臣に恵まれた「漢」は、当代きっての英雄項羽が王の「楚」をあともう一歩で滅亡させるぐらいまでところまで来ていました。そんな楚軍は負けが込み、守るべき自分たちの領土もあと少しとなり、漢軍に四方を囲まれてしまいました。楚兵はわずか数千にまでうち減らされていました。対する漢軍は20万を超える大軍。しかし、楚には剛勇で鳴らす君主項羽がいました。何万という敵に囲まれていてもそれを討ち果たしてしまう突破力。このままでは時間だけが過ぎ、項羽がいつまで存命なのに漢陣営は焦りを感じ始めました。そこで一計を案じます。敵の楚兵の周りに楚の言葉の歌を歌わせる人間を多く配置しました。楚兵は周りから聞こえてくる楚の歌に大きく動揺しました。あるものは自分たちを家族が迎えに来てくれのではと喜ぶもの。あるものは祖国が無くなってしまったのではと疑惑に思うもの。あるものは祖国の兵が寝返って攻めてきたのではないかと思うもの。様々な気持ちが膨らんでいき彼ら楚兵はその夜、多くの兵士、ほぼ9割がたが逃亡してしまいました。


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漢の狙いは見事に的中してしまいました。その後項羽は少ない兵で奮闘しましたが殺されてしまいました。この四面楚歌は、人の望郷の念、猜疑心などを狙った見事な作戦でした。しかし、それ以上に、項羽の人望のなさがこの結果を招いたとも思われます。その結実としての「四面楚歌」だとも言えます。戦争が強くても、人の心までは支配することができなかった、そんなの当たり前ですが、今でも重厚に感じられる教訓がここでは生きているのではと思います。

四面楚歌は自分が招いたとでも言えるでしょうか・・。




いかがでしたか、2週にわたって横山光輝の史記をお送りしました。本来の意味と若干違うものから、もっと奥底に秘めたる意味があるものまで、様々な故事がありましたね。故事はいわば人間の知恵です。これからも、今までも、全く色褪せることのない「真理」です。自分にどう当てはまるかではなく、何を伝えようといているのか?この史記が伝えたかった本質なのではないでしょうか。歴史は勉強するための教科書でなく、人間の説明書なのかもしれませんね。
by manga_do | 2012-09-30 00:00 | 日曜マンガ博物館 | Comments(0)
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